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ここ最近の芸能界を大きく揺らした人物として国分太一氏が再び表舞台に戻ってきた。
2025年6月に姿を消し、世間は情報が錯綜し、憶測だけが独り歩きした。わたしは彼とほぼ同世代であり、TOKIOという存在は青春の象徴に近いもので、突然姿を消した背景には多くの疑問が残っていたのも事実である。
そして昨日11月27日、弁護士を伴い突如として開かれた記者会見。憔悴し切った表情から始まり、声も震え、マイクの不具合のせいもあったが、どこか怯えにも似た響きが感じられた。恐怖がそこにあったことは間違いない。言葉の端々から、争いたいわけではない、しかし納得できないという静かな抵抗の意思が滲み出ていた。あの姿を観て、彼は犯罪者ではないのだと改めて感じた。いや、仮に何か問題が起きたとしても、人は法に守られ、弁護士を選び、録音し、第三者を同席させ、言葉で抗弁する権利がある。それが法治国家である日本の基本である。しかし、彼にはそれが許されなかったという。録音も不可、弁護士の同席も不可、言い分も説明できないまま現場を退場させられるような処遇。それが事実として積み上がっていく感覚に、わたしは強い違和感を覚えた。なぜそこまで人権を無視できるのか。なぜ説明する時間すら与えないのか。この国のどこにそんな強権が存在しているのか。
この数か月の間にTOKIOは解散、法人は廃業、松岡氏は事務所を退所。5か月という時間の中で人生が丸ごと崩れ落ちる経験を、彼は一人で受け続けた。それでも彼は、TOKIOという存在を誇りに思い、仲間を責めることを決してしなかった。これは簡単に真似できることではない。世間から抹殺されるような扱いを受け、一切の言い分も聞いてもらえず、仲間ごと矢面に立たされた状態で、人はここまで冷静でいられるものなのか。それほどまでに彼は誠実であり、そして繊細である。
わたしは占星術という言語を持つ者として、国分氏の太陽が乙女座であることを改めて確認した。1974年9月2日生まれ。出生時間は公表されていないためハウスは確定できないが、乙女座太陽らしい要素は今回の会見に出ていた。乙女座は本質的に潔癖で、筋が通らないことが許せない。言葉の精度を重視する。曖昧なまま生きられない。だからこそ、彼が言葉をひねり出すように語った姿は、乙女座のマジョリティそのものだと思えた。自分の名誉よりも、まず真実を整えたい。誇張ではなく事実を正しく伝えたい。当たり前にあった日常が突然消えたという苦しみ。その状況を家族に説明もできないという焦燥。沈黙を強いられ、自分の人生が一方的に塗り潰される恐怖。その積み重ねの果てに、昨日の会見に至ったのだろう。
芸能界は特殊な世界である。彼は幼少期から大人たちの中で働き、一般常識とは違う環境で生きてきた。その中で、ずっと愛され、評価され、求められてきた。その人生を急に断ち切ることは、一般人が想像する以上の痛みを伴う。しかも、原因を知ることすら許されないまま。これが人権侵害でなくて何だろうか。
テレビ局側が保身に走ったのではないかという疑念は払拭できない。フジテレビの二の舞になることを恐れたのだろう。だが、それは個人の人生を犠牲にして良い理由ではない。彼が何をしたのかではなく、なぜ説明も許されなかったのかが問題である。原因を知ることは罪ではない。対話を求めることは権利である。抗弁することは当然である。人間には自分の名誉を守る権利がある。それが奪われたのなら、誰だって壊れる。
しかし、彼は壊れなかった。彼は言った。TOKIOが自分の全てだったと。周囲のスタッフも彼の人格を否定しなかったと。そして彼には愛する家族がいる。この情報過多の社会で、家族として責められ続けた彼らの痛みは計り知れない。家族の人権はどこに行ったのか。バッシングの渦の中で、日常を奪われ、精神を削られた彼らの傷は、誰が癒すのか。
人は誰だって最初は善人である。信じた人に裏切られ、孤独になり、その時間が長くなるほど、人は狂気に近づくものだ。だが、彼はその闇から戻ってきた。わたしは思う。彼は守るべきだった。守られるべきだった。彼ほど誠実で繊細な人間が、理不尽に押しつぶされる必要はなかったはずだ。世間が、組織が、制度が、彼の声を封じ込めた。しかし、彼は戻ってきた。自分の言葉を取り戻すために。人間としての尊厳を取り戻すために。そして、家族を守るために。原因を知ることは罪ではない。真実を問うことは権利である。この数か月、彼はその最低限の権利すら奪われていた。だからこそ、わたしは昨日の会見を見て、彼の主張は間違っていないと強く感じた。わたしはこの文章を通じて、一つだけ声を大にして言いたい。人権は誰のものでもなく、誰からも奪われてはならない。そして、どんな人であっても、真実を知る権利は奪われてはいけない。国分太一氏に起きたことは、単なる芸能界の問題ではない。社会全体が向き合うべき課題だ。彼の沈黙は終わった。ここから、ようやく始まるのだ。


