寒くない?寂しくない?

どもーパリポーおばさん占い師です。
今日は、お墓参りに行ってきました。

わたしの子どもが眠っているお墓ですので、久々の対面でした。
死産してから早いもので、13年になります。
月日は自然と人を癒すものですね。時間は、いつも優しいものです。
しかし、冬の草木って、水分を含んでいないので固いのね。
お墓の周りに雑草が生えていて、まぁカサカサで、軍手も持って行かなかったのでちょっと苦労しました。

死んでしまったら、季節は感じないのでしょうが、わたしにとって我が子ですから、寒くないのかな、冷たくないのかなって心が痛むのです。

よく、死んだ人の歳は数えないとか言うではないですか。
あれって、凄く酷だなぁと思うのですよね。
わたしなんて、死産ですから、誰の記憶にも残らないんですよね。存在していないから。この世で生きていないから、仕方のないことですが、わたしだけはいつも歳を数えてもいいんじゃないかって。

人っていつか死にます。だけど、一緒に生きた人たちが存在する限り、思い出としてしっかりと残るじゃないですか。
それが、わたしにはとてもありがたいことなんだなってこの経験で初めて知りました。
それまで、生死にあまり意識が向き合っていなかったのですが、自分の身体で初めて経験したんですよ。

産声のない分娩室って、どこか異常です。
これから生きていく瞬間の象徴です。赤ちゃんは。その子は生涯、誕生日をみんなに祝ってもらい成長していくわけです。
ですが、わたしの場合は、「誕生死」だったので、あの時の周りの方々は大変な気苦労をなさったと思い出します。

全てが憎かったです。赤ちゃんの泣き声。元気に走り回る幼児にさえ、嫌悪感がありましたから。
笑顔なんてもう一生なれないとさえ思いました。

それでも、1年が過ぎ、歳を重ねていく過程で喜ばしいこともまた経験できて。人間って生きていたら絶望から這い上がれるんだなぁと思いました。

どれだけ子育てを積んでも、この思いだけは生涯拭いきれない思いなんでしょうね。
流産も同じです。確かに、流産はまだ「人間」として存在していないかもしれません。心音だってやっと確認できたくらいで流産だと他人へそれを言ったってずっと記憶に留めていくのは難しいでしょう。

だから、母親は、母親だけは忘れないのです。忘れたいけど忘れられないのが現実かな。
もう涙を流すことはなくなりました。毎日生きていたら、懸命に生きていたら日々に忙殺されます。

こう考えると、お墓参りって大切ですね。正直、お墓には旦那氏のお父さんも勿論いますけど、会ったこともないし、情なんて湧きません。
冷たいけど、事実であるわけで。
だから、生まれて来なかった子どもを大切に思ってなんて、わたしのエゴです。それも充分理解しています。だからこそ、自分が生きている間だけは、心配したい。思いたい。
ちゃんと生んであげられなくてごめんねって、わたしだけは思い続けたいのです。

でも、きっともう生まれ変わって新しい生の準備をしているって思っています。いや、もう転生しているかもしれません。魂は、個体ではなく、時に集合体として生まれ変わるのではないかなと思うので。

あの世で生まれなかった切ない魂が、集まって相談してもっと頑丈な肉体を選び新しい人生に着手しているかも知れないですから。

いつも思うわけではないのですが、今日は久々に会って少し感傷的になったようです。こういう時は悲しみの海に潜り涙に暮れるのも良いですね。

タイトルとURLをコピーしました