オープンチャット「タラッサ魔麻〜星を味方にする!〜」
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女を使っている、という言葉には、裏社会の匂いだけでなく、政治や組織における見えない力学が潜んでいる。高市総理の手腕を、同じ女性たちが攻撃している姿を見ていると、ああ、やはり女性の敵は女性なのだと痛感する瞬間がある。
個人的には、福島瑞穂氏が嫌いだ。昔はもう少し、ほんの少しだけましだった。しかし今となっては論外。理念だけが空を舞い、現実を伴わない。女性の権利や平等を叫びながら、その声の裏に、他の女性を見下す冷たさが透けて見えるのだ。
わたし自身も、会社員時代にそれを嫌というほど経験した。幼子を抱えながら仕事を続けていた時期、女性上司から言われたのは【やる気あるのか】の一言。誰よりも努力していたはずなのに、理解されることはなかった。
そして、そんなわたしも、立場が変わった時には、後輩に向かって【無理して働くことはない】と言ってしまった日がある。理解し合うはずの女性同士が、立場によって容易く対立構造に陥ってしまう。組織の中で生きるとは、そういう現実と向き合うことなのだ。
集団で批判された経験もある。女たちの輪の中で、誰かが標的になると、空気はあっという間に冷たくなる。そこには正義も論理もなく、ただ自分が傷つかないための沈黙と迎合だけが残る。
女性同士が手を取り合うという理想を信じてきたが、現実はもっと複雑で、もっと残酷だ。
高市総理の路線は「あり」
だからこそ、わたしは高市総理の路線を「あり」だと思う。彼女の戦い方は、女性にしかできない。
ソフトな対応、懐に入る戦法。相手が男性であるなら、当然の戦術だろう。優しさを装うことは弱さではない。あれは、長年男社会を生き抜いてきた女性の知恵であり、戦略だ。
彼女のホロスコープを見れば納得する。ライツは水サイン。感受性が豊かで、情のあるタイプ。しかし太陽は1ハウスにあり、月は9ハウス。つまり、感情に流されず、自分の信念と理論で道を切り開く。これが高市早苗という政治家の本質だ。
1ハウスの太陽は「自分を貫く」象徴であり、9ハウスの月は「理想と理念の人」。この配置は、どんな逆風にも屈しない魂の持ち主であることを示している。ソフトに見えても芯は鋼鉄。彼女がこれほどの立場に登りつめたのは偶然ではない。
男社会で戦う女性にとって、夫の存在や周囲の圧力、そしてパワハラやモラハラは、日常の延長線上にある現実だった。その時代を生き抜いた世代の女性たちは、感情で動かない。必要とあらば敵の懐に入り、時には笑顔で刃を突きつける。そうしなければ、誰も見てくれなかった時代を知っているのだ。
女が男と対等に渡り合うという幻想
「女性が男と対等に渡り合える時代になった」と言う人もいる。だが、現実はまだまだ甘くない。
職場でも、政界でも、女性は常に「性別」という名のラベルを背負っている。男と同じ能力を示しても、「女のくせに」「可愛げがない」と陰口を叩かれる。逆に、柔らかく立ち回れば「媚びている」と言われる。
どちらに転んでも叩かれる。これが、今の日本社会の構造的矛盾だ。
そして皮肉なことに、そうした言葉を吐くのは男性だけではない。同じ女性の口から放たれることも多い。
なぜか。女性たちは、長く続いた男社会の中で生き延びるために、男の価値観を自分の中に取り込んできたからだ。
上に立った女性が厳しくなるのは、自分が通ってきた苦難の道を他人にも強いることで、自らの生き方を正当化しようとするからだ。
しかし、わたしはもうその構造から降りたい。
戦うために男を演じるのではなく、女性の感性をそのまま使って世界を変える時代にしたい。
わたしもまた、懐に飛び込むタイプ
そして、これはわたし自身にも通じる。わたしもどちらかというと、高市総理のように男社会では懐に飛び込むタイプだ。女性の権利を最大限に主張して何が悪いのか。何故なら、わたしは腐っても女性だからだ。
女性らしさを捨てて男のように振る舞うよりも、女である自分を使いこなす方が自然だと思っている。なるべく笑顔で距離を縮め、場を和ませ、言葉に柔らかさを添える。時にそれが武器になる。男の目を見て、恐れず話す。誤解されることもあるが、媚びではない。生き抜くための技術であり、長年の経験が生み出した柔らかな鎧のようなものだ。
若さもない。色気もない。だからこそ、いやらしさは一切ない。あるのは自然体の自分だけ。媚びず、飾らず、等身大の女性として、まっすぐに相手と向き合うことができるようになった。若い頃にはできなかった自然体の強さ。それをようやく身につけた気がしている。
政治の世界でも職場でも、女が女を武器にして何が悪いのか。笑顔や柔らかさは、戦略でもあり、生き方でもある。わたしは高市総理の姿に、そのしたたかな強さを見る。真の女性リーダーとは、男に勝つのではなく、男を動かす存在だ。
子どもを産まない選択もまた、一つの道
子どもを産んでいないことを攻撃する声がある。だが、それはもはや時代錯誤だ。
あれほど国のことを憂い、勉強し、戦略を練り、現場で判断を下す日々を送っていれば、どうやって子どもを産み育てる時間があるのか。
母としての道を選べなかったからこそ、国家の母として生きる女性もいる。それが高市総理という存在の重みである。
ひと昔前の女性は、仕事で成功したければ、何か大きなものを犠牲にするしかなかった。
産まないのか、産めないのか、という議論はあまりにも狭い。
本来問われるべきは、「どう生きたか」「何を残したか」ではないのか。
女性にとっての生き方は、結婚や出産だけではない。
社会を変え、人を導き、時に批判を浴びながらも信念を貫く生き方も、同じく“母性の表現”なのだ。
母性とは命を産むことだけではなく、命を守ること、次の世代に何かを残すこと。
高市総理はまさにその象徴であり、現代の女性リーダー像としての完成形だと思う。
女という存在の再定義
政治家とは、普通の女性には到底できない仕事だ。
感情と理性、柔軟さと強さ、すべてを高い次元で融合させなければ務まらない。
女であることを理由に過小評価され、批判されることは本当にナンセンスだ。
女性が女性を攻撃する構図を変えなければ、社会はいつまでも古いまま。
本当の意味での女性の自立とは、男性に勝つことではなく、同じ女性を尊重することから始まる。
嫉妬や比較から抜け出し、互いの違いを認め合う。その文化を作らなければ、どんなフェミニズムも形骸化する。
女を使う政治ではなく、女が動かす政治へ。
男の戦場に参戦するのではなく、女性の価値観で世界を再設計する時代が来ている。


