note更新しました→https://note.com/maasa0706maasa/n/n18672b6bc6a6
アルコール依存症という病の残酷さを、これほど赤裸々に、これほどリアルに描いた表現者が他にいただろうか。西原理恵子は、その答えを人生と作品をもって私たちに差し出している。
彼女が結婚した相手は、戦場カメラマンとして知られる鴨志田穣だった。だがこの結婚は、希望と絶望の両極を抱えたジェットコースターのようなものだった。酒を飲まなければ穏やかで誠実な男が、酒を口にすれば暴力を振るう。怒鳴り、暴れ、家を壊す。西原はそんな日々の中で、恐怖と愛情のはざまで揺れ動いた。
アルコール依存症は、本人だけではなく家族をも巻き込んで壊す病だ。共依存という言葉があるように、相手の異常な行動に振り回されながらも、なぜか離れられない。助けたいと思えば思うほど、自分が壊れていく。西原もその例外ではなかった。
彼女の描く漫画には、暴力の瞬間がリアルに再現されている。夫が包丁を振り回す。子どもが怯える。警察を呼ぶ。どれもフィクションではない。現実で起こった出来事の記録だ。その描写には演出がない。ただひたすら、体験者の目線で描かれている。
にもかかわらず、読者はそこに笑いを見つけてしまう。不思議なことだが、それが西原の表現の力である。人は、あまりにも痛い話を正面から語られると拒絶してしまう。だが彼女は、笑いの皮をかぶせて差し出す。笑いながら読む。だが読み終えた後、胸の奥に残るのは重い痛みだ。
彼女が離婚を決意したとき、それは自己保全のための必然だった。暴力から子どもを守るため、自分を壊さないため。だが、それは単純な終わりではなかった。鴨志田が末期がんと診断されたとき、西原は彼の元へ駆けつけた。そして最期まで彼を看取った。愛と憎しみの交差点。夫婦としては終わっていたが、人として、子の父として、かつて愛した者として、彼の最期を共にした。
なぜそこまでできたのか。それは西原が、単なる被害者ではなかったからだ。彼女は、アルコール依存という病を、単に責めるのではなく、理解しようとしていた。なぜ酒に逃げるのか。なぜ暴れるのか。その奥にある孤独や弱さを、彼女は見つめ続けた。そして自分もまた、助けることで自分の価値を確かめようとしていたのではないかと語っている。
アルコール依存症と共に暮らすということは、常に不安と恐怖に晒されるということだ。爆発するような怒り、記憶の飛ぶ暴言、そして翌日の自己否定。その繰り返しに、どれほど多くの時間とエネルギーが奪われたことか。だがその地獄の中から生まれたのが、西原の表現だった。
彼女の漫画は、ただのエッセイではない。魂の叫びであり、誰にも言えなかった現実の証言である。ときに過激でときに下品だと評されるその表現は、綺麗事では語れない現実を描くための技法だった。笑わせながら刺してくる。それが彼女のスタイルだった。
西原の作品は、多くの女性たちに救いを与えてきた。家庭内暴力に苦しむ人、アルコール依存の配偶者を支える人、自分を責めてしまう人たち。彼女の漫画を読んで、自分だけではないと思えた。逃げてもいいと許された。それは物語ではなく、現実を生き抜いた者の証言だったからこそ、多くの人の心に響いたのだ。
セカンダリープログレッションでは、この鴨志田の死に際して、西原の火星と天王星のハーフサムに冥王星が重なっていた。破壊と再生、独立と変容を示す配置だった。これは偶然ではない。むしろ、彼女が再生へ向かうために宇宙が背中を押した瞬間だったのかもしれない。
愛する者を助けられなかった罪悪感。それでも、最後まで見届けた覚悟。そのすべてが、彼女の中で言葉となり、線となり、漫画となって読み手に届いていく。
西原理恵子という表現者は、ただの漫画家ではない。彼女はアルコール依存という病の地獄を知り、その地獄から言葉を拾い上げてきた人間だ。その言葉は、同じように苦しむ誰かの闇を照らす小さな光となる。
最後に彼女は語っている。幸せになろうとすること自体が、すでに一歩であり強さなのだと。壊れた過去は消えない。だが、その破片を抱えたままでも、私たちは前へ進める。西原の物語は、それを証明している。
オープンチャット「タラッサ魔麻〜星を味方にする!〜」
↑こちらクリックしてね